▮厳しい身分制度の中で誕生した庶民学校
誕生の時代背景を考えると、閑谷学校はとても画期的な学校だった。時代は江戸時代までに遡る。当時は身分制度が敷かれており、庶民は育てた米を年貢として支配階級に収めたり、「五人組制度」に基づき反乱や犯罪を起こすと連帯で責任を取ったりする時代だった。1670年、備前岡山藩主の池田光政は「地方のリーダーを育成する庶民学校を創建する」として、重臣の津田永忠にその建設を命じた。閑谷学校は庶民の基礎学力を底上げし、また論語などの儒学の経典を学ぶことにより礼節を重んじる国民性の形成にも貢献している。その教育成果が注目され、江戸末期には全国の教育者たちが庶民教育を普及させるために、見学に殺到することになる。
▮閑谷学校で実践された教育とは?
約60名の8歳から15歳までの子どもたちが1年を期限に閑谷学校で学んでいた。中には1年を経過しても居座り、勉学に励み続けた生徒もいたようだ。生徒たちは自宅から、または学校の寮に泊まって通学する。
生徒たちが学んでいた講堂
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授業の内容は儒学の教えをベースに読み・書き・算術の3つで構成されていた。1と6がつく日(1日、11日、21日、31日、6日、16日、26日)には儒学の四書、3と8がつく日には五経を学ぶ。そして、2,4,7,9がつく日は読書と習字に取り組み、5と10がつく日は休息にあてられた。
講堂内の様子
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6時 起床
7時~10時 自習
10時~16時 学校
16時~17時 夕食
17時~22時 自習と宿題
学び足りない生徒は放課後に教官宅に押しかけ、さらに教えを受けることもあったという。計算してみると、1日14時間は勉強していることになる!^^;
▮学校創設者、池田光政のビジョン
僕にとって創設者の池田光政のビジョンに触れられたのが1番の学びになった。見学当日は運良く閑谷学校の所長さんとお話ができたので、「なぜ池田光政は庶民に教育を提供しようと思ったのでしょうか?何が目的だったのでしょうか?」と聞いてみた。
閑谷学校創設者、池田光政候
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なるほど。たしかに、調べてみると池田光政はわずか8歳で国を治める必要性に迫られたため、儒学を必死に学んだ経験をしている。おそらく、教育が人生の明暗を分けるほどの影響力を持っていると、肌身で感じていたからこそ、「国を創るためには人の教育が欠かせない」という考えに至ったのではないだろうか。
▮現代教育への問い
さて、池田光政のビジョンを知っていくなかで、浮かんできた問いがある。
それは「もし、今手元に閑谷学校創設に費やされた同じ10億円があったら、現代の子どもたちにどんな教育を届けたいか?」という問いだ。
閑谷学校は読み・書き・算術と儒学に基づいた学びを子どもたちに提供した。そこで教育を受けた生徒たちはやがて明治維新の原動力となり、日本の近代化に大きく貢献している。
では、同じ10億円という資金があったら、あなたは子どもたちにどんな教育を提供したいですか?
読み・書き・算術と儒学の代わりにどんな学びが良いでしょうか?
子どもたちがその学びを得たら、日本はどう良くなりますか?
一緒に考えてみましょう!^^