2015年7月24日金曜日

学力のバランスの考え方 藤の学び改革「旭川藤女子高等学校」(北海道)


「板書やノートに書き写す時間がもったいないのでカットします。代わりに、全教室に設置してあるプロジェクターを使ってパワーポイントを投影します。パワーポイントは資料として生徒にも配布します。」旭川藤女子高等学校は学校の学びを21世紀の社会に対応させるため、2014年から「藤の学び改革」をスタートさせた。今回は、改革の説明会に参加して聞いたことと考えたことについて書きたい。  

 
昭和28年に創立された旭川藤女子高等学校は少子化の煽りを受け、他校と差別化できる特色ある学校づくりが課題になっていた。同時に、生徒たちの学校生活に対する満足度は高い一方で、学力や進路において到達度が不十分であるという悩みも抱えていた。そこで、現状を打破するために、「藤の学び改革」と題して授業の見直しに着手した。
 
 
 

改革その1「アクティブラーニング スタディタイム」

「藤の学び改革」は大きく3つに分類できる。一つ目は「アクティブラーニング スタディタイム」と呼ばれる70分型授業だ。教師が一方的に説明する従来の授業を全面的に廃止し、代わりに生徒の能動的な学びを引き出すために、下記3つのフェーズに基づいて授業が展開される。

 
    インプット・フェーズ(30分)

    アクティブ・フェーズ(20分)

    リインフォースメント・フェーズ(20分)

フェーズでは学習の基本となる知識を教師が解説する。いくら能動的な学びを重視するとはいえ、基本的な知識がなければ、思考もクラスメートとの議論も生まれない。その代りに、一方的な説明は最小時間で効率良く行えるように、これまで教師が板書してきた内容はすべてパワーポイント資料で準備され、スクリーンに投影される。また、パワーポイント資料は生徒にも配布し、スクリーンの内容をノートに書き写す時間も短縮されている。これは、板書やノートに書き写す時間が子どもの学力に結び付きにくいという考えに基づいた取り組みだ。


次に、フェーズではフェーズで獲得した知識を活用しながら、ディスカッション、プレゼンテーション、実験等を生徒たちが主体的に行う。いま流行のアクティブ・ラーニングと言われる授業形態であり、70分型授業の目玉でもある。僕が見学した高校2年生の政治経済の授業では、「ギリシャ危機によって円高になるか?円安になるか?」というテーマについて生徒たちが議論をしていた。生徒たちからは「なぜ外国人は日本円を買うんだろう?」、「あれ、そもそもギリシャの通貨ってなんだっけ?」といった本質的な質問が飛び出し、話し合いは活発に行われていた。点を覚える暗記型学習とは異なり、良質な問いを伴ったアクティブ・ラーニングでは、学習対象の仕組みや流れを俯瞰して学べる利点がある。そういう意味で、生徒たちの学びの幅が広がっている印象を受けた。
 
  

最後のフェーズでは復習のための演習に時間を使い、学んだ内容を定着させることを目的とする。フェーズで新しい単元を導入し、フェーズで学びを強化し確かなものにする、というのが70分型授業の構成である。


改革その2「DEタイム」

昼休み前の35分間、生徒たちは全員に配布されている「iPad mini」を使って弱点を総復習する。専用のクラウドには18万ページもの学習プリントが用意されており、一人一人のレベルに合ったものを選択することができる。これは「Developmental Education Time」と呼ばれる学び直しの時間であり、生徒たちは学び直しのポイントを自分で選び、自分の計画に沿って学習を進めていく。旭川藤女子高等学校の宮本教頭先生は「弱点克服とともに、将来的には予習にも範囲を広げ、自ら学ぶ力を高める時間にしたい」と語っている。「iPad mini」を活用することで一斉授業では難しい個人の習熟度に合わせた学習が可能になっている。また、生徒自ら学習内容を選択し、計画を立て、実行をすることで自ら学ぶ経験を積むことができる。この2つに大きな魅力を感じた。
  

 

改革その3「PDS手帳」

ビジネスの世界でお馴染の「PDSサイクル」を学校教育に導入したのが3つ目の改革だ。自分の目標に対して計画(Plan)を立て、実践(Do)する。その後、自分の活動の良かった点や改善点を振り返り(See)、次の活動に活かす。目標とPDSサイクルを専用の手帳に日々記入をすることで、生徒たちの自立と自律を育む。他の2つの改革と比べると、「PDS手帳」は子どもが自力で学び続ける力の育成に特化したものだと言える。

 

学力のバランスがカギ

旭川藤女子高等学校の説明会を聴講して感じるのは、学校が提供する学力のバランスの良さである。ここ数年、知識偏重型の教育が批判され、探究型学習や創造性を育む教育が注目されている。しかし、過度な知識の軽視は子どもを間違った方向に導く恐れがあると僕は考える。具体例を挙げて説明する。文部科学省はこれからの社会を生きるうえで必要な学力を下記の3つとしている。


知識・技能

知識・技能を活用するための思考力、判断力、表現力

学習に取り組む意欲や学び続ける力

 近年、日本の子どもたちは学力に大きな課題があると考えられてきた。知識を問うような問題は正解できるのだが、いざ知識を活用して解く応用問題や記述問題になると、正答率が急激に下がる。具体的な問題例については下記のイメージを参照してほしい。の問題は96%の子どもが正解できる一方で、の問題の正解率は18%まで落ちる。


 



また、2012年のPISA(OECDの学習到達度調査)では、日本の子どもたちは読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーでトップクラスの結果を残したものの、学習に対する効力感(できる!という感覚)、動機づけ、興味や関心の調査ではOECD諸国の中で最下位に近いという結果が出ている。(なぜかこちらの結果はメディアであまり報道されない・・・)これらのデータにより学力②と③の向上が日本教育の最優先課題とされてきた。



ただ、すこし冷静になって考えてみたい。いま問題になっているのは、「知識偏重」という学力のバランスの悪さであり、学力=悪ということではない。学力を高める教育を追求するあまり「学力は悪だ!」のような極端な主張を耳にすることもあるが、それはいくらなんでも言い過ぎである。

例えば、先ほど紹介した政治経済の授業では、「ギリシャ危機によって円高になるか?円安になるか?」というテーマについて議論をすることで、学力が育まれる。問題の本質について自分なりに思考し、自分がそれについてどう考えるのかを判断する。そして、出てきた結論を他のメンバーにわかるように表現をするのである。その議論の基盤になっているのが、実は学力である。そもそもギリシャ危機が何を指しているのか、円高と円安はどんな意味なのか等、基本的な知識がなければ議論は成り立たない。最低限の語彙や言い回しもわかっていなければ、クラスメートとの話し合いも深まらず、形式的なものになってしまう。そうなってしまったら、学力が育まれる前に、できない、わからない経験の連続で学力③までもがかえって下がってしまうだろう。

 

 

学力3兄弟説!?

だからこそ、3つの学力のバランスがとても重要だと僕は考えている。そういう意味で旭川藤女子高等学校の3つの学び改革には下記のような役割分担があり、バランスの良さを感じる。

・「アクティブラーニング スタディタイム」学力を育む
 
・「DEタイム」学力を育む
 
・「PDS手帳」学力を育む

 
繰り返しになるが、日本の学力に関する問題はバランスの悪さに原因がある。3つの学力は独立しているのではなく、相互に影響し合いながら伸びるものである。そこで、僕は3つの学力を3兄弟に見立てた。一人でも抜けたり、ひいきされ過ぎたりすると、他の二人は途方に暮れるか、喧嘩をしてしまい、役割を果たせなくなってしまう。3人揃うと力を発揮する特徴があるため、ぜひこの3人とはバランス良く付き合っていきたい。



最後に、これからわが子に確かな学力をつけてくれる学校を探している方へ。ぜひ学校側に「3つの学力のバランスについてどう考え、どう保証していますか?」という質問をぶつけてみてほしい。その質問に対して真摯に回答をしてくれる学校は期待できる可能性が高いだろう。知識偏重型教育への極端な批判に惑わされないように。


 

2015年7月16日木曜日

高校生を卒業する前に学ぶ、自由の取り扱い方「公文国際学園」(神奈川)


神奈川県横浜市に公文国際学園という中高一貫校がある。公文式の創始者、公文 公(くもん とおる)が創立した学校だ。幼児や小学生が通っているイメージが強い公文がどんな思想に基づいて中高生の教育を行っているのか?そんな興味があり、授業見学に行ってみた。公文国際学園の教育理念は難解であり、一度の見学ではとても理解し切れないものであるため、学校関係者からお聞きした話も織り交ぜながら学びを書きたい。



公文式創始者、公文 公

ここには校則も制服もない?

公文国際学園には校則や制服がない。生徒たちは私服で学校生活を送り、体操着も自分で用意する。体育の授業でGパンを穿き、「これで運動できます」と言って先生を説得した子もいるという。みんな私服なので、学校の食堂で生徒たちに混ざって昼食をとっていると、なんだか大学のキャンパスにいるような錯覚に陥る。中には茶髪の子やアクセサリーを身につけた子もいて、彼らに対して先生たちは特に注意をしない。


休み時間の過ごし方も一人一人自由気ままである。マンガを読みふけっている子、ipodで音楽を満喫している子、スマートフォンのゲームに夢中になっている子、みな思い思いに休憩している。どうやら、学業の邪魔になる娯楽的なものは禁止されていないみたいだ。(僕が高校生の時には携帯電話やMP3プレーヤーを学校に持ち込み、頻繁に先生に没収されていた・・・)


子どもたちがあまりにも自由に過ごしているため、彼らが真剣に勉学に励んでいるのかと首を傾げてしまう。しかし、公文国際学園は年に2~3回、オランダのハーグやアメリカのハーバード大学の模擬国連に生徒たちを参加させている実績がある。しかも、それは13年間連続で、である。

 
僕も大学時代に模擬国連の経験があるため、その難易度の高さはよく知っている。各国の代表になり切って国連の会議に参加し、グローバル規模の問題について討議したり、それを解決するための方法を模索したりする。そのため、参加者は代表国と世界情勢に関する知識を大量にインプットしないと議論についていけない。また、論理的に自分の考えを述べることが要求されるため、コミュニケーションやプレゼンテーションの技能も磨く必要がある。おまけに使用言語は英語だ。圧倒的な学力と勉強量を保証できなければ、13年間連続で海外の模擬国連に生徒を送り出すのは不可能である。

 

自由と放縦

 
勉強はできるみたい。
でも、過剰な自由は子どもを間違った方向に導くこともあるのではないのか?
ある程度の制限を設けないと、彼らは自己中心的な人間に育ってしまうのではないか?
次はそんな疑問が出てきた。これを考えるためには、自由と放縦を区別する必要がある。あくまで一例として、僕なりの定義を記す。

「自由」→いかなる拘束や支配も受けず、個人、社会、人類の幸福のために正しいことを追求できる状態

「放縦」→欲や本能に従って行動するさま
 
公文国際学園の関係者との対話を通じて、学校の教育理念が追求しているのは上記の「自由」であり、「放縦」ではないことがわかってきた。例えば、学校生活において、勉強をサボる、人の物を盗む、トラブルを暴力で解決するといった行為は自分または他者の幸福に反しているため、「自由」とは認められない。それらはやりたいようにやっているだけの「放縦」である。ある行為が「個人、社会、人類の幸福」という前提条件に合致して初めて、それは「自由」として認められ、制約を受けないのである。


対話という線、強制という壁


しかし、ある行為が果たして「自由」にあたるのか、それとも「放縦」にあたるのかを未熟な子どもが見極めるのは容易ではない。「自由」に適う行為だと錯覚して、「放縦」な行為をすることもありえる。そこで重要になってくるのが、子どもと対話をしようとする教育者の姿勢である。

 
こんなエピソードを教えてもらった。ある女子生徒のスカートの長さが非常に短いときがあった。そんな子をなんとか諭したいと教師は考えている。普通の感覚なら、教師は「校則に反するから」とか、教師が生徒を管理する優位性を利用して「それは許可できない」とでも言って指導をするだろう。言うことを聞かないようであれば、職員室に連れ込み説教。埒が明かなければ保護者に連絡が入ることもありえる。一方、公文国際学園の教師と生徒はこんなやりとりをする。
 

教師:「その服装、ちょっと気にならないかい?」

生徒:「べつに~」

教師:「そっか。でも、君には恋人がいるよな。その人の家族に挨拶をしに行ったとしよう。その家族が君の服装を見て、どう感じるか、すこし考えてくれるかい?」

生徒:「・・・」

 
こんな感じで教師と生徒が服装について対話をしていく。教師は命令をしたり、強要をしたりはしない。代わりに、その子が進むべき道を示した後、本人にじっくり考えてもらうのだ。ちなみに数日後、この生徒のスカートは長くなっていたそうだ。

 
 
対話をすることで子どもは考える機会が得られる。有無を言わさず、子どもたちを強制することもできるが、それはまるで彼らを壁の中に閉じ込めるようであり、思考力を奪うリスクがあると僕は考える。壁の中にいれば、確かに安全なのだが、壁を超えることによってもたらされるリスクとその理由について自分で思考する経験が失われる。思考力を失った子どもは自分の行為に対して善悪の判断ができなくなってしまう。

 
壁ではなく、対話という線を引くことで生徒たちは線の向こう側に何が待っているのかを見ることができる。そして、その線を超えることが誰かの幸福につながる「自由」な行為なのか、それとも「放縦」な行為なのかを自分の頭で考える機会に恵まれるのだ。先ほどの女子生徒を例にすれば、短いスカートは恋人の家族に悪い印象を与えてしまう恐れがある。悪印象によって、家族が二人の交際に否定的になってしまったら、それは大切な恋人にとっても望ましい状況ではないはずである。そこまで女子生徒が自分で考え、腑に落とすことができれば、自発的に服装を改めるようになる。

 
「何をしたらいいのか」を自分で考え、行動する練習を6年間も積むことで、公文国際学園の子どもたちは自律型人間に成長する。それを可能にしているのが、制約が最小限に抑えられた環境であり、その中で生徒たちが教師との対話を重ねながら「自由」に生きる術を習得していく。「自由」を正しく取り扱えるようになったとき、人はやっと自立して生きていけるようになるのだろう。

 
 

2015年7月2日木曜日

軽井沢から世界を変える人材を「ISAK」(長野)

2014年8月、軽井沢に日本初の全寮制インターナショナルスクールが誕生した。International School of Asia, KaruizawaISAK)の第一期生として、世界15か国から49人の生徒(高校1年生)が入学し、アジア太平洋地域の明日を担うチェンジメーカーを目指して勉強している。ISAKの教育内容について知りたいと思い、キャンパスツアーに参加してきた。

軽井沢の大自然に囲まれたキャンパス


創始者の原体験「国を根本的に変えてくれるリーダーを育てたい」

ISAKの代表理事を務めているのは小林りんさん。東京大学を卒業後、ベンチャー企業の経営や国際協力銀行等を経て、国際児童基金(ユニセフ)で働くことに。ユニセフの職員としてフィリピンに赴任した際に感じた限界がISAKのコンセプトに大きな影響を与えている。
 
フィリピンには住民登録もされていないストリートチルドレンが10万人ほどいると言われており、そんな子どもたちが時に売春や臓器売買の犠牲になるリスクがある。彼らに教育の支援を行い、社会に出てもらうことに意義を感じる一方で、小林さんは自分の活動に失望感も抱いていた。
 
支援した子どもが晴れて大学に行けたとしても、失業率が高いフィリピンでは仕事が見つかる可能性は低く、結局働く場所を国外に求めることが多い。優秀な人材ほど海外に出ていくので、国内の社会問題は解決されず、ストリートチルドレンを生み出す負のスパイラルを断てないという。
 
この時に小林さんが痛感したのは、国を根本的に変えてくれるリーダーの不足という問題であり、リーダー層の育成が成功しない限り、国の本質的な課題は解決できないと考えた。この問題意識はやがてISAKの「社会に変革を起こすリーダーの育成」という教育方針につながっていく。

何が日本初なのか?

冒頭で書いたようにISAKは日本初のインターナショナルスクールである。その秘密は全寮制にある。3年間、生徒たちは異なる文化、宗教、価値観を持ったクラスメートと生活を共にする。第一期生の出身地を見ると、タジキスタン、ソマリア、ネパール、タイ、マレーシア、ベトナム、フィリピン、オーストラリア、中国、台湾、スペイン、アメリカ、日本とあり、多様性に富んでいる。また、2015年には第二期生が各国から入学することになっており、学校内の多様性はさらに豊かになっていく。
生徒たちの寮
ISAKでは、IB(バカロレア)やIDEOのデザイン・シンキングに基づいた教育カリキュラムも提供しているが、個人的には「異文化に対する偏見がまだ少ない時期に、多様性を受容する力と、多様性の中で個性を発揮する力」を育めることが最も価値ある教育経験だと思う。
 
例えば、クラスメートの中には、出身村が全力で支援したからこそ進学ができた生徒がいる。村中の人々が学費の資金を集め、村の貧困問題を解決するリーダーになってほしいという想いを託してISAKに送り出すのだ。ちなみに、その子は食べることもままならない貧しい地域で育ったため、胃が小さくなっている。その結果、たくさんの量は食べきれず、学校の給食を残してしまうこともあるそうだ。
食堂に貼ってあった生徒たちのプロフィール
そんな多様な経験をした仲間とほぼ24時間一緒に生活をするわけだから、生活のリズムや寮のルールをめぐって衝突が起きることは当たり前だ。異なる他者と暮らす以上、最初から分かり合えないのは当然であり、相手の言い分を聞きつつ、自分の考えをわかりやすく伝えていく姿勢と能力がなければ生活は成り立たない。
 
多様性の豊かな社会が理想とされる中、ISAKの生徒たちは共存の難しさをリアルに体感し、その中で生きる術を磨いている。異質の他者と共存する方法を3年間も試行錯誤できる高校は日本でISAKしかない。だからこそ、価値があると思う。将来、彼らが創造する地球社会が楽しみだ。