2015年7月16日木曜日

高校生を卒業する前に学ぶ、自由の取り扱い方「公文国際学園」(神奈川)


神奈川県横浜市に公文国際学園という中高一貫校がある。公文式の創始者、公文 公(くもん とおる)が創立した学校だ。幼児や小学生が通っているイメージが強い公文がどんな思想に基づいて中高生の教育を行っているのか?そんな興味があり、授業見学に行ってみた。公文国際学園の教育理念は難解であり、一度の見学ではとても理解し切れないものであるため、学校関係者からお聞きした話も織り交ぜながら学びを書きたい。



公文式創始者、公文 公

ここには校則も制服もない?

公文国際学園には校則や制服がない。生徒たちは私服で学校生活を送り、体操着も自分で用意する。体育の授業でGパンを穿き、「これで運動できます」と言って先生を説得した子もいるという。みんな私服なので、学校の食堂で生徒たちに混ざって昼食をとっていると、なんだか大学のキャンパスにいるような錯覚に陥る。中には茶髪の子やアクセサリーを身につけた子もいて、彼らに対して先生たちは特に注意をしない。


休み時間の過ごし方も一人一人自由気ままである。マンガを読みふけっている子、ipodで音楽を満喫している子、スマートフォンのゲームに夢中になっている子、みな思い思いに休憩している。どうやら、学業の邪魔になる娯楽的なものは禁止されていないみたいだ。(僕が高校生の時には携帯電話やMP3プレーヤーを学校に持ち込み、頻繁に先生に没収されていた・・・)


子どもたちがあまりにも自由に過ごしているため、彼らが真剣に勉学に励んでいるのかと首を傾げてしまう。しかし、公文国際学園は年に2~3回、オランダのハーグやアメリカのハーバード大学の模擬国連に生徒たちを参加させている実績がある。しかも、それは13年間連続で、である。

 
僕も大学時代に模擬国連の経験があるため、その難易度の高さはよく知っている。各国の代表になり切って国連の会議に参加し、グローバル規模の問題について討議したり、それを解決するための方法を模索したりする。そのため、参加者は代表国と世界情勢に関する知識を大量にインプットしないと議論についていけない。また、論理的に自分の考えを述べることが要求されるため、コミュニケーションやプレゼンテーションの技能も磨く必要がある。おまけに使用言語は英語だ。圧倒的な学力と勉強量を保証できなければ、13年間連続で海外の模擬国連に生徒を送り出すのは不可能である。

 

自由と放縦

 
勉強はできるみたい。
でも、過剰な自由は子どもを間違った方向に導くこともあるのではないのか?
ある程度の制限を設けないと、彼らは自己中心的な人間に育ってしまうのではないか?
次はそんな疑問が出てきた。これを考えるためには、自由と放縦を区別する必要がある。あくまで一例として、僕なりの定義を記す。

「自由」→いかなる拘束や支配も受けず、個人、社会、人類の幸福のために正しいことを追求できる状態

「放縦」→欲や本能に従って行動するさま
 
公文国際学園の関係者との対話を通じて、学校の教育理念が追求しているのは上記の「自由」であり、「放縦」ではないことがわかってきた。例えば、学校生活において、勉強をサボる、人の物を盗む、トラブルを暴力で解決するといった行為は自分または他者の幸福に反しているため、「自由」とは認められない。それらはやりたいようにやっているだけの「放縦」である。ある行為が「個人、社会、人類の幸福」という前提条件に合致して初めて、それは「自由」として認められ、制約を受けないのである。


対話という線、強制という壁


しかし、ある行為が果たして「自由」にあたるのか、それとも「放縦」にあたるのかを未熟な子どもが見極めるのは容易ではない。「自由」に適う行為だと錯覚して、「放縦」な行為をすることもありえる。そこで重要になってくるのが、子どもと対話をしようとする教育者の姿勢である。

 
こんなエピソードを教えてもらった。ある女子生徒のスカートの長さが非常に短いときがあった。そんな子をなんとか諭したいと教師は考えている。普通の感覚なら、教師は「校則に反するから」とか、教師が生徒を管理する優位性を利用して「それは許可できない」とでも言って指導をするだろう。言うことを聞かないようであれば、職員室に連れ込み説教。埒が明かなければ保護者に連絡が入ることもありえる。一方、公文国際学園の教師と生徒はこんなやりとりをする。
 

教師:「その服装、ちょっと気にならないかい?」

生徒:「べつに~」

教師:「そっか。でも、君には恋人がいるよな。その人の家族に挨拶をしに行ったとしよう。その家族が君の服装を見て、どう感じるか、すこし考えてくれるかい?」

生徒:「・・・」

 
こんな感じで教師と生徒が服装について対話をしていく。教師は命令をしたり、強要をしたりはしない。代わりに、その子が進むべき道を示した後、本人にじっくり考えてもらうのだ。ちなみに数日後、この生徒のスカートは長くなっていたそうだ。

 
 
対話をすることで子どもは考える機会が得られる。有無を言わさず、子どもたちを強制することもできるが、それはまるで彼らを壁の中に閉じ込めるようであり、思考力を奪うリスクがあると僕は考える。壁の中にいれば、確かに安全なのだが、壁を超えることによってもたらされるリスクとその理由について自分で思考する経験が失われる。思考力を失った子どもは自分の行為に対して善悪の判断ができなくなってしまう。

 
壁ではなく、対話という線を引くことで生徒たちは線の向こう側に何が待っているのかを見ることができる。そして、その線を超えることが誰かの幸福につながる「自由」な行為なのか、それとも「放縦」な行為なのかを自分の頭で考える機会に恵まれるのだ。先ほどの女子生徒を例にすれば、短いスカートは恋人の家族に悪い印象を与えてしまう恐れがある。悪印象によって、家族が二人の交際に否定的になってしまったら、それは大切な恋人にとっても望ましい状況ではないはずである。そこまで女子生徒が自分で考え、腑に落とすことができれば、自発的に服装を改めるようになる。

 
「何をしたらいいのか」を自分で考え、行動する練習を6年間も積むことで、公文国際学園の子どもたちは自律型人間に成長する。それを可能にしているのが、制約が最小限に抑えられた環境であり、その中で生徒たちが教師との対話を重ねながら「自由」に生きる術を習得していく。「自由」を正しく取り扱えるようになったとき、人はやっと自立して生きていけるようになるのだろう。

 
 

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